濡れた黒髪に、小さな人間の形をした影が、ぽわぽわと、まとわりついているように見えた。正面に幽霊マンションが見えてきた。やばい場所だった。



 ■月■日 

 このマンションには、不気味で猟奇的な殺人事件の恐怖が、いろいろと纏わり憑いていた。
 ある日、十三階の屋上から、投身自殺した男性がいた。どすんと重い音がしたという。それが、怪奇の始まりを告げる銅鑼の音だった。
 まるで百階建ての高層ビルから、転落したようだった。遺体の損壊が凄まじかった。ぐしゃぐしゃに潰れていたという。何かに押し潰されたようだった。
 次の週には、男の下半身だけが、駐車場で発見された。腰の断面には、恐竜のような生き物の歯形があった。切断されたのではなくて、食われたのである。身元は不明のままだった。
 今でも、失われた上半身が下半身を探して、長い二本の手で、通りを猿のようにしゃかしゃかと疾走する姿が、見られるという。
 さらに一ヵ月後のことである。まるでボロ雑巾のように捻れた男の死体が、マンションの前に転がされていた。
 それから、十日後には、炭化した胴体だけの、団子のような死体が同じ場所に放置されていた。
 全身が溶け崩れた亡者の群れが、マンション前の通りを行進していた。等など。
 そうした、暗黒の都市伝説の出所が、この幽霊マンションなのだった。
 おれの昔の女が、恐がりなのに、どういうわけか、こうした恐い話が、何よりも大好きだった。どこから仕入れてくるのか、寝物語に、いろいろと聞かされたのである。
 今では、入居者が極端に少なくなっていた。アパートのように、月単位で会社などにレンタルをしている。おれも、女の部屋を探しているときに、不動産屋から格安の有料物件があると、言葉巧みに薦められたことがある。地元の女は、即座に、あそこだけは嫌だと言った。
 怪談など信じてはいなかったが、不運な場所に住むと、不運になるというのは、世間的な知恵として知っていた。即座に、不動産屋に断った記憶がある。もっとも、そうまでして注意していても、結局、最悪の運勢を引き当ててしまったようだったが……。
 今は、幽霊マンションは、夜目にも何か陰惨な気配を湛えて、星一つない夜空に聳えていた。手入れのされていない壁面には、五本の巨大な指の爪で、引っ掻いたような割れ目が走っていた。建物の周囲だけ、暗さの濃度が異なるような気がした。各階の、吹き抜けになったエレベーター・ホールの黄色い光が、滲んでいた。
 それを背景に、少女がくるりと振り向いたのだ。切れ長の鋭い目が、おれをひたと見つめていた。口元の笑みは消えていなかった。
 ぞっとさせられていた。あまりにも欠点のない端正な美貌は、人形のような非人間的な冷酷さを感じさせる。彼女がそうだった。目を逸らすことができなかった。
 何か咒文を唱えるように、口元が動いていた。それから、赤い唇から、赤い舌がぺろんと姿を見せていた。小さな蛇のように、すぐに隠していたが。体内に巣食う妖魔が、一瞬だけ油断をして、姿を見せてしまったようだった。不気味だった。
 何事もなかったように、マンションの敷地内に、すたすたと踏み込んでいった。蛇に睨まれた、蛙のようだった。おれは、ふらふらと女の尻を追い掛けていった。マンションの入り口の方に向かっていた。
 頭の半分は、引き返せと警告していた。・・・今ならば、まだ間に合う・・・・。
 頭の半分は、女とやることしか、考えていなかった。・・・おれは、誘われているのだから・・・。
 左右に大きく揺れる、振り子のような尻の後を、催眠術にかかったように、ふらふらとついていった。
 いきなり、入り口で転んでしまった。マンションのコンクリートの、わずかな段差に躓いたのである。もう三日間、ほとんど水しか口にしていなかったのだから、仕方がなかった・・・。
 ・・・中に入ってはいけない。戻らなければ。しかし、どこに帰るというのだろうか・・・。
「だいじょうぶですか?」
 彼女のあの鈴のように澄んだ声が、耳元でした。おれは、四つんばいになって、床に両手をついていた。
 見上げるおれの瞳に、ジーンズの彼女の姿は、おそろしく大柄に見えた。ジーパンの長い脚から、雄大に張り出した腰まで妙な威圧感があった。
 盛り上がったTシャツの、紺色の二つ山の間から、彼女の小さな顔が、おれを心配そうに見つめていた。
 自分の二本の足で立とうと試してみたが、だめだった。すぐに頽れてしまった。ひどく弱っている。
 女は、コンビニのビニール袋を、お尻のポケットに深く差し込んでいた。それから、脚を曲げて、汚い床にも迷う事なく、片膝を付いていた。おれの脇の下に、腕を差し込んでいた。恐れている様子は、まったくなかった。
「立てますか?」
 手を貸して、親切に立たせてくれた。
 全身が重く、ひどくだるかった。頭痛がしていた。膝に力が入らなかった。おれは、病気なのだと思った。
 空腹が、限界に来ていたから・・・。
 百キロ以上の体重を、女には無理だと思いつつ、預けなければならなかった。
 肩も貸してくれた。彼女の腕に盛り上がる筋肉の厚みが、頼りがいがあった。優しい動作だった。
 彼女も、脚を伸ばしていった。ゆっくりとした動きで、立たせてくれた。人肌のぬくもりが、肌にしみてきた。洗いたての髪に、新鮮なマスカット・シャンプーの匂いがした。
 巨漢のおれを、女子学生が軽々と扱っていた。絶食のために、減量したことになっているのだろうか。
 彼女が、微笑みかけてくれた。
 六尺近いおれと、それほど視線の高さが変わらなかった。
 ・・・妙だな・・・。
 さっきコンビニで見たときには、こんなに長身だっただろうか。
 彼女の足元を見た。爪先の出たミュールである。可愛らしい足先が覗いていた。踵が、それほど高いようにも見えなかった。一時、流行した、厚底靴ではなかった。
 おれは、彼女に引き摺られるようにして、マンションの中に入っていった。ヘビー・デューティ仕様の、二十九センチメートルのサイズの登山靴が、爪先を床に擦らせていた。重い悲鳴のような音を立てていた。
 右手にあるのは、おそらく、かつては管理人用として使用されていた部屋だろう。暗く無人だった。埃と黴の臭いがした。長いこと使用されていないのだ。
 玄関ホールにも、荒廃のしるしは歴然としていた。去年の枯葉が、壁の隅に降り積もっていた。半ば土に帰ろうとしていた。廃墟のようだった。
 エレベーターは、奇跡のように動いていた。明かりが点っていた。女は、登りのボタンを片手で押した。
 待っている間も、足に力が入らなかった。少女は、ドアの上の階数を表示する明かりが下降してくるのを、じっと辛抱強い表情で、見上げていた。横顔にも、知的な端正さがあった。女が肩によいしょと、おれを抱え直すのが分かった。
「すまないな」
 おれは、そう言った。
「女に助けられるなんて。男の名折れだよ」 女の瞳が、優しくおれを見下ろしていた。「うふふ」
 鈴のような声で笑っていた。
「だいじょうぶよ。別に重くないもの。もっと、寄り掛かっても良いわよ」
 お言葉に甘えることにした。体力の限界が来ていた。旧式のエレベーターは、焦れったいほどに遅かった。
 汗をかいているわけでもないのに、薄いTシャツを通して染みてくる女の体温が、暖かくて気持ちがよかった。おれの方の体温が、下がっているようだった。新陳代謝が低下しているのだろう。ぞくぞくと寒気がした。女という血と肉からできた、特製湯タンポのぬくもりを、久しぶりに感じていた。
 女の肩に回していた左手で、筋肉質の背中を、指先で撫で擦るようにしていた。Tシャツの下に隠れていた、ブラの金具の居場所を感知していた。女の右手は、おれの右の脇の下に深く差し込まれていた。おれの頭部の重量を、女の弾力のある右の乳房が跳ね返していた。柔らかい枕に、頭を乗せているようだった。女は何も拒まなかった。安心感があった。子供の頃に、おふくろに、こうして甘えていたことがあるような気がする。
 ふと女の腋の下から、汗の匂いが甘く漂ってきた。香水ではない。純然たる少女の体臭だった。大人の女のそれよりも、青臭いものだった。女の若さの現れだった。
 思わず、おれの自由な右手が、女の胸元に第三種の接近遭遇をしていった。しかし、目的地に着地する前に、女の手に進行を阻止されてしまった。指先を摘まれて、簡単に遠ざけられてしまった。万力のような力で、爪を押さえられていた。痛かったが、それも気にならなくなるような衝撃的な言葉を、女は言った。
「ここでは、まだ、だあめ。いたずっら子なのね」
 彼女の言葉が信じられなかった。おれを誘っているのだった。
 ちーんという音がした。葬式の鐘のように陰気な音だった。エレベーターのドアが、ぎぎぎと軋みながら開いた。女が、大股で前に出た。おれの身体が、一瞬、宙吊になったような感触があった。足が床に着かなかったのだ。左手の付け根が引き抜かれるように痛んだ。そのまま、エレベーターの床に頽れていた。
「座っていて良いわよ。六階までいくから」
 少女は、ドアのスイッチの脇に立っていた。向こうを向いたままで、そういった。
 ぎぎぎと、厭な棺桶のしまるような音を立てて、エレベーターのドアが閉じていった。耐用年数ぎりぎりの古い機械は、ごとんごとんと喘ぎ、不安定に揺れながら、かろうじて上昇を開始した。彼女の部屋で待ち受ける歓待を想像していなければ、降ろしてくれと叫んでいたのかもしれない。
 おれの頭の中には、さっきの女の言葉が渦を巻いていた。「ここでは、だあめ」「ここでは、まだ、だあめ」それならば、どこならば良いのか。いたずらな女神よ。
 おれは、後ろ姿の女の、長く二本の青い塔のように聳える脚を観察していた。見応えはたっぷりとあったから・・・。
 ミュールの踵は、手入れが行き届いている。ピンク色をして柔らかそうだった。角質化しているようには見えなかった。裸足の足首は、あくまでも細かった。こういう女は、あそこの締まり具合も良いのだ。それが、名器の条件であることを、おれは経験的に知っていた。
 膨ら脛も筋肉質だったが、固すぎはしない。膝から上の太ももは、その上に広がる雄大な臀部を支えるために、あくまでも太かった。ジーンズの生地の中で、はち切れそうに充実していた。太っているのではない。全体としての印象は、あくまでもしなやかだった。鈍重な感じはしなかった。しかし、片脚だけでも、おれの全身と匹敵する質量を持った、骨と血と肉からなる、重厚な塔のような建築物だった。
 おれを卑小に感じさせていた。剥がれたり擦り切れたりしたタイルの隅に、飼い主の足元から離れない子犬のように、従順に座っていた。
 彼女は、六階までと言ったが地上六十階にも達しそうなぐらいの、長い時間がかかっていた。このままだと、天国にも着きそうだと思いはじめた頃に、ちーんとまた鐘が鳴った。
 ドアが、ぎぎぎと息絶え絶えに開いた。彼女は、大股にさっさと出てしまった。
「早く下りなさい」
 ドアを片手で押さえながら、そういった。厳しい口調だった。おれは、母親に叱られた子供のように、すっくりと立ち上がろうとした。しかし、思うに任せなかった。
 ようやく動くようになった脚で、膝行るようにして、エレベーターから下りた。ドアを押さえる彼女の四本の指が、ずいぶん高い位置にあるような気がした。
 おれは、吹き抜けのエレベーター・ホールにいた。
 広大で寒々しい場所だった。
 恐ろしく高い天井で、生きている蛍光灯は一本しかなかった。それもじーーっと、不機嫌に唸りながら瞬いていた。ふっと消えて、闇になった。
 風が通り過ぎていく。都市の夜景が見下ろせた。星一つない空は、半透明の寒天の膜を張ったように、ぬめりとした感触を持っていた。
 広大で寒々しい場所だった。テニスコートでさえ、一面ならば十分にとれそうだった。ぞっとした。
 ・・・広すぎないか・・・。
 いくら十三階建てでも、あの幽霊マンションが、こんなに大きな建物であるはずは、なかった。
 ・・・ここは、どこだ・・・。
 背後でエレベーターのドアが、重々しく咳き込みながらしまった。おれは、おさなごのように、保護者である彼女の姿を探した。彼女は、銅像のように静かに佇んでいた。両足を大きく開いていた。
 おれは、女を見上げていた。ミュールの足から膝へ。太ももを登り、暗いので紺が黒に見えるTシャツへ。上へ。もっと、上へ。視線は乳房の山に登攀していった。首の後の筋肉が緊張して、痛むぐらいだった。女の表情は闇の中にあった。次の瞬間、息を吹き返した蛍光灯が、その顔を照らし出した。顔も巨大だった。舌なめずりをしていた。
 大柄とか、長身とかいう表現を越えていた。巨人か、化物というべきだった。
 女は微笑しながら、おれの手首を握った。万力のような力だった。そのまま空中にすうっと持ち上げられていった。腕が抜けるようだった。まるで、おれの重さを感じていないようなスムーズな動きだった。
「早く部屋に行きましょ。お腹がすいちゃったわ」
 おれは、獲物の兎のように、彼女の眼前にぶら下げられていた。両足が宙を蹴っていた。大人と子供だった。母と幼児ぐらいの体格の差があった。女は途方もない大女に変身していた。
 小さな頃に、大人の大きな身体に感じていた、恐怖感という遠い記憶を、呼び覚まされていた。大人は小人(こどもは、こびととかくのだ)に対して、なんだって出来るのだ。 ・・・誘拐されて、人さらいに売られてしまうのだ・・・。
 自由な手で頬を抓ってみた。夢ではない。現実だった。
 女は、おれをひょいと肩に担いだ。おれの腹が、筋肉質の隆々と盛り上がる肩に、乗せられていた。
「やめろ、やめろ」
 おれは、必死に暴れていた。両手で女の背中を殴っていた。足で乳房の隆起を蹴っていた。おれの抵抗など、問題にしていなかった。胴体を片手で抱えこんでいた。
 おれは、なんとか両手を肩に突っ張った。女の手の重圧の下で、少しだけ身を起こしていた。そして、分厚い黒髪に覆われた耳に、髪の上から噛み付いてやった。
 がぶり。
 葡萄の味がした。シャンプーのせいなのかと思った。
 じゃりっと、太い髪が口に満ちたが、柔らかい耳の肉の歯応えが、かすかにあった。
「痛い!」
 女が吠えた。次の瞬間に、おれの身体は、広大な室外のコンクリートの通路に、落下していた。柔道の受け身を取った。出来なければ、首の骨を折っていたかもしれない。
 そのまま、よたよたと走りだした。
「やったわね!」
 背後から、大女が来襲する気配を、風に感じていた。ずしんずしんと、床に振動を感じた。歩幅が、違いすぎるのだ。
「ほらほら、どこにいくつもりなの」
 エレベーターの光は、一回に停止していることを示していた。下りのボタンに指が届かなかった。飛び跳ねていた。
 振り返ると、のっし、のっしと、巨人が大股で追跡してくる。おれの噛んだほうの耳に片手を当てていた。
 マンションの下をパトカーが、サイレンを鳴らしながら走っていく。
「助けてくれ」
 おれは、悲鳴を上げていた。
 物凄い力で、背中を強打されていた。ミュールの足の甲で、サッカーボールであるかのように、ロー・キックをされたのだった。自動車に追突されたような衝撃があった。空中を飛んでいた。コンクリートの床が、急速にせり上がって来た。かろうじて頭部は守った。しかし、受け身を取ったものの、全身に激痛が走っていた。俯せになって、口の中の苦い胃液を吐いていた。一瞬間だが、失神していたのかもしれない。
 頭上の異様な気配に、仰向けになった。彼女のミュールの靴底が、おれを卑小に感じさせていた。眼前のほとんどの視野を、覆い隠していたのだ。踏み潰されると思った。目を瞑っていた。
 腹部を、殴打されていた。
 ぐえっ。ひきがえるのように呻いていた。
「ほらほら。早く足の下から逃げないと。ゴキブリみたいに、踏み潰されるわよ」
 物凄い重量だった。胸の上に車一台分の体重が、伸し掛かっているような気分だった。女のサンダルは、おれの首の下から、臍下までを、完全に覆い隠していた。
 辛子を求めて、夜の街を走り回って汗ばんでいた、女の足の臭いを嗅いでいた。もう一度、吐きそうだった。
 ミュールの厚い板のような爪先に、両手を当てた。懸命に押し返そうとしていた。しかし、上空の美少女の顔は、涼しげに微笑しているのに、ぴくりとも動かすことができなかった。女は、片脚を上げた不安定な態勢のはずなのに。だめだ。体格と体重が違い過ぎるのだった。
 どうして女は、巨人に変身してしまったのだろうか。ありえないことだった。幽霊マンションに入ってからの、微妙な違和感を次々に思い返していた。
 そうだ。女が巨人になったのではない。おれが、ゆっくりと小さくされていたのだ。
 靴の底は、超特大のサーフボードのようだった。24・5という数字を読んだ。この女の足のサイズなのだろう。おれは、三十センチメートルぐらいに、縮小されているのだった。靴の裏の、溝に食い込んでいた小石(おれにとっては岩)が、腹部に食い込んできていた。
「どうしたの、もうおしまいなの?つまんないなあ」
 靴がおれの胸から、滑り落ちていった。助かったと思った。しかし、そうではなかった。
「じゃあっ、つぶしちゃおっと」
 おれの股間に、ミュールの爪先があった。 巨大な芋虫のような親指の先端が、無慈悲に蠢いていた。夜の道路の埃が付着して汚れていた。女には見えない足の裏だった。
「ゴキブリくんだって、もうすこし、しぶとかったけどなあ」
 性器に鉄のような重量を感じた。戦慄していた。小便をちびりそうだった。
「いやだ、いやだ。やめてくれ」
 感情の枷が吹き飛んでいた。おれは、子供のように、泣きじゃくっていた。あんまりだった。虫螻蛄のように、女に踏み潰されて、死ぬなんて・・・。
 踏んだり蹴ったりとは、おれの人生のことだった。もう、限界だった。本当は、おれはもう長いこと、こうしたかったのだ。子供のように、なきじゃくりたかったのだ。それで助かるとは、思っていなかった。このまま、殺されるだろうと思っていた。
 しかし、泣き落とし戦術には、思わぬ効果があった。
「……いいわ、やめてあげる……。かわいそうに、なっちゃったわ」
 重圧がふっとやんだ。彼女が足を上げて、自由な身体にしてくれたのだった。
 それから、何としたことか。片手でおれの胴体を掴んで、ひょいと持ち上げた。彼女の指は、おれの110センチメートルのウエストを、簡単に挟んでいた。そんなに小さくされていたのだ。
「その代わり、おとなしくするのよ」
 彼女は、おれを胸に抱き締めていた。おれの突き出した肥満体の腹が、彼女のそれ以上に豊満な巨乳に乗っていた。
「唸れ~、衝撃の~」
 女は何かの演歌の、リフレインの部分だけを繰り返し唄って、上機嫌だった。大漁という、高揚した気分だったのだろうか。
 おれは、表面は従順に、しかし、脱出の機会を虎視眈眈と伺っていた。このまま、室内に連れ込まれたら、何をされるか分からなかった。
 女はドアの前で立ち止まった。片手でジーンズの尻ポケットの中に、鍵を探していた。正面に隙が生じていた。山のようなおっぱいに、歯を立てていた。手加減。歯加減は一切しなかった。全力を傾注していた。Tシャツと、ブラを通して、今度も熱い肌の感触が歯に応えた。
 「痛い!」という小さな悲鳴と同時に、脳天に鋼鉄のハンマーが、打ち下ろされていた。重い衝撃があった。目から本当に火花が飛んだ。マンガの表現だと思っていたが、現実だったのだ。鼻の奥に、きな臭い臭いもした。涙が滲んでいた。大岩のような拳骨で、殴られたのだろう。
「ほんとうに、いたずらっ子なのねえ。静かにしなさいね」
 今度こそ、おれは言われた通りにしただろう。気が遠くなっていったから。脳震盪を起こしたようだった。世界が視野の周囲から、急速に暗黒に飲み込まれていった。


親指トムII世
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暗黒都市伝説完

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